私は今、身体のこと(姿勢と身体操作)を学んでいるのですが、もし学んでいなかったら今頃どうなっていただろう?と考えることがあります。
例えば自分のSNSの数年前の投稿。
今読んでみると、病んでるな~と思うものだらけ。
自分で書いたはずの内容に恥ずかしくなり、こいつヤバいなと思ってしまうほど。
もし学んでいなかったら今頃どうなっていただろう?
と思うのも今の自分だから思えること。
気づけてよかった、姿勢と身体操作を学んでよかったなと心底思います。
姿勢と身体操作と一括りに言っても、世の中にはいろんなものが溢れています。
流派のようなものや、◯◯メソッドと謳ったものから、ちょっととんでもなものまで。
見かけのいい華やかで派手なものもありますが、私が学んでいるのは地味も地味。
世の中の人が好む傾向のものではないかもしれません。
しかし学びとは本来、地味なものではないかと。
コツコツ地道に継続し続ける。
ただただ繰り返し反復練習を続けていくしかない。
裏技やワープのないゲーム。
しかし、牛の歩みも千里。
小さくても必ず成果があらわれる。
やがてそれらが大きな成果となる。
そういうものだと思っています。
学んでいくなかで、偏屈な私がいちばん変わったこと。
それは、できない自分を認めることができるようになったということです。
負けず嫌いと言うのもおこがましい。
ただの捻くれもの。
どれだけ損な生き方をしてきたことか(笑)
できない自分を認める。
素直な人にしてみればなんの問題もないこと。
しかし私にとっては崖から飛び降りるほど、いや、ケツの穴を見られるほどのことだったかもしれません。
私が教えていただいている先生のブログやSNS投稿を読んでいると、「これ私のことを言ってるよな。刺さるわー」と感じることが多々あります。
それを妻に話すと、「私もそう思っていた」らしく、同じく学んでいる者には痛いほど突き刺さりまくる内容なんだと理解しました。
なぜいちいち刺さるのか?
自分には足りないもの、劣っていることなどに気づき認めることができるからです。
妻もまた、できない自分を知り、それを認め、改善するために地道に反復練習を繰り返しています。
そうこうして少しづつではあるけれど、身体が変化してきました。
いろいろ楽にもなり、ものの見え方や捉え方も変わってきました。
インチキ臭いものや胡散臭いものがはっきりとわかるようになりました。
昨日まで普通の人が、急に霊視をしだしたり、龍が見えだしたり、誰かの生まれ変わりだと言い出したり、宇宙と交信しだしたりするものに引っかからなくなりました(笑)
儲けているふうの人や凄い人ふうの人もわかるようになりました(笑)
ジャンルを問わず、偽物や嘘がわかるようになりました。
こうした経験から、身体を(自分を)変えたいならば、自分でそれに気づき認めないことには絶対に変わることはないと確信しました。
自分がそうだったから。
客観的に見ていると明らかなのに、「私は大丈夫、私は違う」と認めない人は少なくありません。
それでもそれを指摘しようとは思いません。
自分で気づき認め自分から行動しないとなにも変わらないから。
「いるいる、そんな人いるよねぇ」と思った人。
そんな人ほど自分のことには気づいてなかったりするものです。
できない自分を認めるというと悲観的に考えがちですが、その必要はなく、
自分はここが苦手なんだな。
ここがない部分なんだな。
ここが違っていたんだな。
ただ気づき認める。
それで十分だと思います。
まず気づかないことには始まらないし認めないことには始まらない。
それができれば半分くらいは前進できたと言ってもいいかもしれません。
そこから先が長いけども(笑)
こんな言葉があります。
人生は道路のようなものだ。一番の近道は、たいてい一番悪い道だ。
フランシス・ベーコン
自分にとって都合の悪いこと。
認めたくないこと。
苦手なこと。
身体を変えたいならば、そっちを選ぶのが近道なのかもしれません。